【本物の神秘体験とカルト的な擬似神秘体験との相違点】深い心の解放が本当は必要|忍者猫 ブログ

【本物の神秘体験とカルト的な擬似神秘体験との相違点】深い心の解放が本当は必要

【本物の神秘体験とカルト的な擬似神秘体験との相違点】 深い心の解放が本当は必要


旧統一教会について、10日ほど前から、様々な言論人がユーチューブ動画やネット記事で投稿をしています。

またテレビ番組でも、旧統一教会についての言及があるようです。

宗教について議論する際に無視できない論点のひとつは、宗教体験の真偽という問題です。

でも、この問題について論じている人は、今のところ見かけないので、このテーマを取り上げようと思いました。

差し当たり、臨床系の心理学に詳しい人なら知っている程度の説明になりますが、この手の知識は共有しておく必要があると思ったので、何が本物の神秘体験で、何が擬似的な偽の神秘体験なのか、ひとつの重要な判断基準になることなどを少し解説しておきたいと思います。

カルト宗教と政治との関係性について議論しても、カルトに走る可能性のある人にとっては何の歯止めにもならないし、大多数の日本人にとって、カルト宗教と政治が密接に繋がっている現状が分かったところで、個人的な場面では何かプラスになる訳でもないと思うからです。

心理学的な研究から、本物の神秘体験と偽の神秘体験と違いは、かなり前から指摘されていました。

大きな目安になるのは、何か天からのお告げのような体験が起きたときに、どちらの方向から聖なるお告げの声が聴こえてきたか、という声が聴こえてきた方向が、ひとつの重要な判断基準になるということです。

もちろん、こうした判断基準は、むしろ現実の判断としては二義的な基準でしかないのですが、しかし、天啓を得たと称する人物と直接面識がない場合や歴史上の文書として残されている記述などから真偽を判断する場合には、これから説明することが重要な判断基準になると臨床心理の専門家の間では伝えられてきました。

それを踏まえて、なぜ統一教会が危険なカルトだと判断できるかも、それに続いて説明します。

知り合いに旧統一教会の信者がいた時に、相手を説得して脱洗脳を図る機会があるとしたら、これからの説明は役に立つと思います。

また、一般的な知識としても、様々なスビリチュアルな教えの真偽を判断する際の基準にもなり得るので、参考になるかと思います。

本物の優れた宗教にも、カルト宗教にも共通するのは、天からの声を聴くケースがあることです。

その手のお告げの声を通して天啓を受けたというケースに、本物と偽物があるということなのですが、どちらも本人にとっては神秘体験であり、一般的な認識としても、それぞれ神秘体験として認知されるのが普通です。

しかし、天のお告げというスタイルの神秘体験の場合には、本物の体験は非常に少なくて、大多数の体験は本人の心理的な異常に由来する擬似的な神秘体験だと見做されています。

そして、その違いはどの方向から天の声が聴こえてくるかで、ほぼ判断できると考えられているのです。

こうした研究は、本物だと思える歴史上の優れた宗教家と、心理療法を受けている人や精神科医のクライアントなどの心理的な体験報告などの比較によって明らかにされてきたことでした。

前置きが長くなりましたが、決定的な違いとして判断基準とされているのは、声が前方から聴こえるか背後から聴こえるかの違いです。

より具体的には、前側の頭上方面から声が聴こえてくるケースは、本物の神秘体験の特徴だと言われています。

それに対して、背後から声が聴こえてくる、ないしは声が聴こえてくる方角が分からないケースは、異常心理に由来する擬似的な神秘体験だということなのです。

これは、あくまで一般的な分類なのですが、この一般論に普遍性があると思える理由もあります。

でも、そこまで説明すると長くなるので、ここでは省略しますが、宗教的な体験を判断する際に大切なのは、自我を超越するような体験と、歪んだ自我に起こる体験とが、一見神秘体験の中身としては、似ているケースが少くないことなのです。

そのために、心理学の世界でも客観的な判断基準を探っていく試みがされてきて、その結果、ひとつの判断基準として上記のようなことが一般論として指摘されるようになったわけなのです。

こうした説明は、何冊かの本で読んだ記憶があるのですが、僕の印象に残っているのは、宮本忠雄氏の「精神分裂病の世界」という著書の中にあった説明でした。

実は、統一教会にも神秘体験をしたという人がいました。

統一教会の教義を体系化した「原理講論」について講義をしていた指導者クラスの人が、宇宙を創造した神の声を聴いたという話をしていたのが記憶に残っているのですが、その話を聞いたときに即座に感じたのは、これは擬似的な神秘体験だということてした。

僕の場合には、その時の判断に絶対的な自信があったので、それが入信しないという決断に至った大きな動機になったのてすが、その後に宮本忠雄氏の著書を読んで、その指導者の人から聞いていた自らの神秘体験の描写と、「精神分裂病の世界」で描かれていた精神分裂病のクライアントのケースとが一致したので、やはり自分の判断に間違いはなかったと改めて感じたのを覚えています。

僕が、その人の体験を本物ではないと判断した根拠は、もちろん神の声がどの方向から聴こえてきたか、という判断基準ではなく、その指導者の人間性の歪みが歴然と察知できたらからなのですが、何故こんな人物が宗教的な教えを説く指導者の一人として君臨しているのか、非常に疑問に感じたのです。

それは、3日間の修練会という、特別なセミナーの場でのことでした。

かつて統一教会には、3日間、7日間、3週間の修練会というのがあって、7日間の修練会からは信者でライト参加できないシステムだったのですが、3日間の修練会は最終的に入信するかどうかを決める場という位置づけになっていたセミナーでした。

泊りがけの合宿形式でのセミナーだったのですが、厚木にあったセミナー会場に一緒に参加していた人は、20人近くいたのを覚えています。

その時の参加者の大半は、セミナー中に統一教会への入信を決意表明していました。

セミナー参加者は普通の人々で、特に精神的に問題を抱えているように思える人はいなかったのですが、そんな彼らが簡単に入信してしまう様子を見ていて、何とも言えない疑問が心の底から湧いてきたのを今でも覚えています。

セミナー会場には特別な雰囲気がありました。

一種の集団心理による洗脳には、実に適した雰囲気だったと思います。

最後まで抵抗していたのは、僕以外には、あと2、3人いた程度だったかもしれません。

最終的な入信する決断をしないと、今後は破滅の人生が待ち受けている、といった脅し文句まで語られた記憶が残っています。

原理講論の教えでは、この人間世界はサタンによって支配されているので、サタンの支配から逃れるには、唯一正しい教えを説いている統一教会に入信する以外には方法がないと教えられていました。

それでも、信者になる人の多くには、何かしら心理的な深い問題があったと思えるのです。

だから、カルト宗教の洗脳から真に自由になるには、単純に間違った教えによる洗脳から解放されれば良いというよりも、深い心の解放が本当は必要なのです。

洗脳からの解放が逆洗脳になり、それによって上手く社会には適応できたとしても、本当の心の解放は得られないままだったとしたら、それでは最終的な問題の解決にはなりません。

統一教会の教えでは、他の一般的なキリスト教の教えは、サタンの教えだと見做されていました。

統一教会こそが真のキリストの教えであり、これこそが本物のキリスト教だということなのです。

そんな教えが基礎にあるので、僕の理解では、キリスト教の神父や牧師などが真実のキリスト教の教えを統一教会の信者相手に説くことで脱洗脳を試みても、それでは本当の問題解決になりないケースも多い筈だと思えたものでした。

これは自分自身の体験からの強い確信でもあります。

統一教会の信者の心理的な側面には、神経症と統合失調症(精神分裂病)との境界領域に位置するとされる境界例の症例に近い状態の人が多い感じがしたものでした。

ある種の慢性的な神経症のケースだと、統一教会の信者になることは無くて、この手の洗脳からは完全に距離を置くことができます。

自分自身がそのケースだったので、それは実感としてよくわかるのです。

境界例の危険性のひとつは、一歩間違うと危険な行動に走ることにあります。

統一教会の場合には、むしろ政治的な影響力を持つようになったことで、その危険性がかなり緩和されたに違いないのです。

こうしたことが理解できると、カルト宗教についての理解が更に深まります。

個人の心理という側面からは、統一教会はかなりカルト的な要素が強く、実は、オウム真理教以上にカルト性は強かったと言えるのです。

ケン・ウィルバーも、現代の代表的なカルトのケースとして、人民寺院と並んで名前を挙げていたのが原理運動=統一教会でした。



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