仏教は欲望を否定しません しかし「執着」は否定します
しばしば仏教は偶像崇拝と批判されることがある。
昔、西洋魔術関係者との会話でそれが出たので、僕は聞き返した。
「偶像崇拝のどこが悪いの? 聖書に書いてあるから?
それって単に聖書の著者がライバル宗教の蹴落としのために書いたことなんでないの? 」
すると、相手は何も言えなくなってしまった。
まあ、無神論の哲学者達が偶像崇拝を批判するときは
もちろん別の見解を持っているとは思う。
でもそれに反論するんじゃなく、仏教徒として仏像をどう考えているかを
述べた方が良いと思う。
とある禅の高僧がいた。
冬の寒い夜、一人の旅の僧が宿を借りた。
その客は寒くて震えている。
すると高僧は、ふだん大切に拝んでいる木の観音様の像を割って
薪にして旅の僧に暖を取らせた。
驚いている旅の僧に高僧は言った。
「いやいや、こうしたほうが観音様も喜んでくださるだろう。」
とある浄土宗の熱心な信徒が阿弥陀仏に尻を向けて
昼寝をし、あろうことか屁までした。
それを見た別の信徒が「罰当たりでは?」と問うた。
すると彼は答えた。
「あんたは、親父に尻を向けて寝たことはないのか?
親父の居る方向に屁をしないように気をつけているのか?」
「まさか、そんなことはしてないよ。」
「それと同じだ。俺にとって阿弥陀仏は親父だ。
親父に変な気兼ねをするなんて、水臭い話しだ。」
一休さんがお地蔵様の開眼供養を頼まれた。
すると一休さんは、いきなりお地蔵さんに向かって立ち小便をした。
怒った信徒たちは、一休さんを追い払い
お地蔵を水で洗って、ねんごろに供養した。
ところが信徒の代表が、突然発熱して寝込んでしまった。
信徒たちが一休さんに相談すると、彼は自分の褌を脱いで渡した。
「これをお地蔵さんに巻いてみなさい。」
言われた通りにすると、寝込んでいた男は熱が下がり
嘘のように元気になった。
もちろんこれらは全部「寓話」です。
でも仏教の仏像に対する考え方が良く現れている。
例えば、一神教の場合、十字架を薪にしたり
メッカの方向におならをするような行為が美談になるなんて
まずありえない。
仏教独特の教義とも言える。
仏教は欲望を否定しません。
しかし「貪り」、言い換えるなら「執着」は否定します。
戒律に最も厳しいはずの禅で、歴史に名を残すほどの高僧が
たまに破戒のパフォーマンスをするのは、このためです。
戒律ですらそれに「執着」してしまっては、本末転倒と考えるからです。
もちろんこれは、仏像を粗末に扱って良いと言う意味では断じてありません。
それどころか大乗仏教においては、金目当てに仏像を盗んだり
悪意をもって故意に仏像を破壊したりする行為は
無間地獄に落ちる宗教上の重罪とされます。
仏像は丁重に扱わなければなりませんが
それに執着してしまうのも本末転倒だってことなんですね。
確かに仏教は「開眼」と呼ばれる大切な儀式がある。
これは「魂入れ」とも呼ばれるけど、ぼく的にはちょっと違う。
これは仏像はただの人形ではなく、大切なシンボルですよ
と言う「けじめ」だと思っている。
「聖不動経」には、無相法身、虚空同体、無其住所
但住衆生、心想之中
すなわちはっきりとお不動様はどこにいるでもない
あなたの心の中におわしますと書かれている。
それは全ての仏様に言えることだと思うんですよね。
阿弥陀様は木の中にはいらっしゃらない。
それすがる信徒の心の中におわします。
(だから、より原理主義的な浄土真宗にはそれを
極端なまでに徹底するので、開眼の儀式は無い。
代わりに新しく仏像を建立したお祝いの儀式を行う。)
ではなぜ仏教徒は仏像を拝むのか?
簡単に説明しますと、まず仏教徒は仏様の弟子です。
仏教徒であると言う事は、仏様の弟子になって
仏道修行をするってことなんです。
けど悟っていない凡夫にとっては
「師匠は心の中におわします」と言われても、なかなかピンとこない。
そこで「方便」として、仏像を本物の仏様
お師匠様として拝し敬意を示す。
そうすることによって仏道修行をする、ってわけなんです。
故に仏像は丁重に大切に扱わなければならない。
でもそれに「執着」しすぎてしまって
仏教の本来の教えとかけ離れたことをしてしまっては
本末転倒だってことなんですね。
そう考えれば、仏像や仏様をネタにした罰当たりな
ゲームや漫画も笑いながら見られるw
観音像に物凄く「執着」している人が多いことです。
「何のために」宗教が存在しているのか考えたらわかります。
人間がより幸せに、穏やかに、寛容に生きるためですよね
(「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」)
人のために宗教やその造形物があるので
宗教のために人があるのではないですし。
その上で、ちょい補足です。
キリスト教で、危急存亡の時などに十字架を薪にするのは、全然アリですよ。
300年近くに及ぶ江戸時代の禁教期
隠れキリシタンたちは毎年シッカリ踏み絵を踏みました。
生き延びました。
東方正教会、カトリック教会では
プロテスタント教会と違って宗教画を描き
像を作りますが、それは偶像崇拝とは違います。
あるカトリック神父が像や絵は
「大好きな人や家族の遺影のようなもの」
と語っていて、うまい説明だなと思いました。
つまり、あくまで像を通じて偲ぶよすがであって
大好きなのはソレそのものではない。
大切な人のゆかりの品だから大事に扱うけど
そのモノを拝むわけではない。
ユダヤ教(キリスト教、イスラームの祖)がトーラー(律法)で
禁じたのは、像そのものが何かの力ある存在として
拝むまじない、物神崇拝的なフェティッシュな行為であって。
像や絵、聖書などの書物そのものは
カミサマでもなんでもないタダのモノ。
燃やすのは別にアリです。
また、旧約聖書(ユダヤ教の聖典。キリスト教、イスラームも引き継いだ)
が書かれた時代は、ユダヤ人たちは弱小民族として
絶えず周辺の大帝国
(エジプト、新旧バビロニア、ローマ…)との
緊張にさらされてたのは忘れてはならない重大な要素です。
自民族が奴隷になって拉致され、何十年も帰れない捕囚が繰り返されました。
周辺の大帝国はいずれも現世利益的な多神教だったので
弱小勢力がアイデンティティーを保ち、生き延びるには異質な
宗教文化を打ち立てるのは不可欠だったのだ、そんな風に理解してます。
十字架よりも、人の命が大事です。(笑)
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