宮本武蔵は60数回も試合をして、すべて勝ったのか? 小次郎も実はいなかった?|忍者猫 ブログ

宮本武蔵は60数回も試合をして、すべて勝ったのか? 小次郎も実はいなかった?

宮本武蔵は60数回も試合をして、すべて勝ったのか? 小次郎も実はいなかった?

二天一流をすこし体験しましたが、とても素晴らしい剣術でした
宮本武蔵は強かったと思います

強かったと思いますが、勝てそうな相手としか戦わなかったという見方もあるようです。

宮本武蔵自身架空の人物説があります。
これはないと思いますが。

下は読み物としてお楽しみください
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(291) 回答ログ - Quora



■負けた記録が残っています。
 東北で、剣豪でもない山伏かなにかに負けて、命からがら逃げ帰っています。
 ほかにも負けたようですが、文献では見たことがありません。
 
■武蔵が負けた相手として、次の3名が残されています。
 が、いずれも違うでしょう。

夢想權之助

  本人とまわりがそう言っているだけ。
  2度戦ったこととなっていますが、本当に1回でも戦ったのか不明。

  警察が使う棒術の元となった「真道夢想流棒術」の使い手ですが、
  負けたままであると都合が悪いので、そうしたのでしょう。
  棒術を学ぶとわかりますが、槍術と違い、相手を倒せません。
  
 寛永御前試合での荒木又右衛門
  寛永御前試合そのものが創作です。


塚原卜伝
  武蔵が生まれる10年前に死去しています。なので、これも創作。


■史実として伝えられている試合
 「文献で残されている試合」であれば、私は知りません。


■武蔵に関する史実

 かなり精度が悪いです。
 彼自身は足軽程度の身ですから、そうそう記録は残されていません。

 彼が最高に出世したのは細川藩て、禄は7人扶持18石で仕官した時期です。
 ようやく少し余裕が出来てからしか、彼自身ですら自らを書き残していません。


■武蔵の父・無二斎について

 武蔵に関する情報の精度の悪さの例を示します。

 ・武蔵自身は、父親は7歳で死別としています。
 ・歴史家は、黒田家に1600年頃に仕官していた文献があるとしています。
  → 私は、無二斎を名乗った親戚だろうと考えます。


■世に伝わる武蔵像について

 歴史ではなく、戯作や大衆演劇として残っているのだと考えます。
 五輪の書についても、本当に彼が書き残したのか怪しいとすら考えます。


彼の戦歴(六十余戦無敗)は、宮本武蔵が偽造した職務経歴書と考えます。

 直木三十五を始めとして「弱い相手としか戦わなかった証」としていますが、
 私はほぼほぼ虚偽記載と考えています。


■1612_巌流島の戦い(見方1)


 私が調べた頃は、巌流島の戦いは無かったとする人もいました。
 巌流島の橋渡しを行ったエリアの方々の話を聞きまわったりもしましたが、
 家族内でも地区にも口伝されていないので、なかっただろうという意見が
 そのエリアでは多く聞けました。

ただ、実際にあったとする文献も残っています。

 その文献では、「武蔵は子分4名を連れて戦い、佐々木小次郎は半死。


 数日後に、まだ小次郎が生きていたことがばれて、子分が小次郎を襲い、
 小次郎は絶命した。」とあります。


 なので、巌流島付近での襲撃はあったのかもしれません。
 が、ひどく脚色された歴史です。



■1612_巌流島の戦い(見方2)  ※佐々木小次郎に関して


 この見方2とは、巌流島は決闘ではなく誅殺であったとする説

私が調べた時には、


 小次郎自身(存命でも70歳前後)は既に高齢あるいは死んでいた可能性があり、
 その家族・縁者も博多だったかで商人をしていたという伝がありました。


 佐々木小次郎本人は、小倉時代の細川家の指南役でした。
 ただ隠居後は、商家として生きたと。

 博多だったはずですが、小次郎の子孫が残っていますが、彼らも商家の認識です。
 佐々木小次郎は福井県出身で、剣を磨いたのも福井県です。


一方で、福岡県田川郡出身とする意見もあります。


 田川郡の豪族が佐々木家であり、この佐々木家は秀吉の九州平定時に抗った
 豪族のひとつだと。その懐柔策として佐々木家を指南役としたとする見方です。
 当初は目論見どおりにすすみました。

 しかし、剣術の支障として佐々木家が弟子を増やしていたことから、
 クーデターを起こすのではないかと細川家が懸念して、
 佐々木家の代表格・高名ある小次郎を抹殺したのが巌流島の戦いだとする説です。

どうでしょうか。私には疑問です。


 反乱を口実に、移封や取り潰しを懸念することはわかりますが、
 細川家に非常に懇意の家康は存命です。


 豊臣家もまだまだ残っている時に、強硬はしないでしょう。
 薩摩もありますが、肥後・加藤家が豊臣色を強くしたらどうなるか。
 実際、家康亡き後、島津の抑えは細川家にしていますしから、
 徳川家としても細川藩は大事にしていたと考えます。


 なにより、宮本武蔵を細川家が迎え入れるのは巌流島から30年後です。
 細川家が武蔵と佐々木家抹殺の縁故があるならば、扱いが悪すぎます。
 なのでこの見方2は、私には縁遠い考えです。


■戦での功名


 武蔵の軍勢同士の戦いにおける実績として伝わる話。
 ・慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは黒田官兵衛に従い東軍として戦う
 ・慶長19年(1614)大坂の陣では、水野勝成の元で戦った

一方で、確かな記録があります。


 1638年_島原の乱で原城攻防戦です。このとき、武蔵は54歳ぐらい。
 武蔵が石垣に攻め寄せた際に、相手の投げた石が武蔵の脛に当たり、
 戦いから離脱したということが明記されています。


 何が言いたいのかというと、
 武蔵は関ヶ原や大坂の陣での働きがありながら、
 54歳の身石垣に登らねばならないようなポジションであった。


 そして、まともな脛宛すら持っていない身分であったということです。
 剣聖が、まともな武具すら用意できず戦地に向かうとは。
 不用意過ぎるのか、金が無かったのか。


 また、禄は7人扶持18石ですが、彼は誰かを率いて参軍した様子でもない。
 奇妙な扱いです。細川家からしたら、指南役がこれでは恥ですよ。

ちなみに、武蔵の婿養子は他藩の侍大将として参戦しています。
 大きな差が生まれているのも複雑な思いで見てしまいます。


■二天一流を考案するまで


 武蔵は7歳で天涯孤独となり山野で育ち、和太鼓のばちさばきを見て、
 二天一流を川の流れの中で会得したと回顧しています。


 冷静に考えて、なんやそれってぐらいレベル低いですよ。  
 ですが、武蔵曰く、12歳で新当流の有馬喜兵衛を撲殺することから
 戦いの歴史をスタートしたとしています。


生き死にが生き死にが身の回りにある戦国時代後期、


 仮に有馬が60歳だと仮定しても、12歳に撲殺されるものか。
 本当であれば、不意打ちだったと思います。

■どこからも仕官話は来ず


 戦国時代後期とはいえ、まだまだ武辺者を求めているところは多いです。
 戦働きはしたことがないが、剣術や総術で名を少しばかり上げただけで、
 けっこういい条件で仕官した人は少なくありません。


 仕官したが、腕は立たず問題児であった例すら少なからずだったので、
 その当時の時勢がわかります。


 しかしながら、武蔵自身は破格の実績(自称ですが)を挙げながらも、
 どこからも声がかかっていません。どういうことか。

■武蔵が残した書画・彫刻


 彼の絵画や文字を見ますと、その筆致は相当のものです。
 武蔵が言うところの、細川公のもとで安定した生活を持てたことにより、
 老齢となって絵を嗜んだ・・というのですが、上達が速過ぎる。


 本来の武蔵自身の性格や生活は、野蛮野生の生き物でした。
 老齢となった彼の描いたモズは、バッキバキに鋭敏な生き物です。


 しかしながら、彼の熊本での生活(住環境やお庭)は、
 落ち着いた住環境を大事にしており清潔好き、おとなしく生活しています。

 
 私が疑うのは、あれだけの絵を描けたのに、残っている点数はわずか。
 時間も金(とはいえ、たった玄米三百石ですが)もありながら、
 嗜んだというわりには、習作的な作品も残っていない。


 私はこう疑うのです。
 彼の作品は購入したものであり、だから数が限られるのではないか?
 有名な宮本武蔵の絵も、あれは自画像(要は自分で書いたもの)ですが、
 ほっそりとしていて逞しさは感じられません。
 彼の孤独だけを現すような自画像です。


 作品がいずれも見事なもの故に、不一致さを覚えるのです。
 ここまで何事も出来る人が、起用・重用されないものだろうかと。
 こう思うと、就職時も就職後も、彼の経歴は嘘ばかりではないのか。


■死に際


 「大恩ある細川家の代々当主が参勤交代する際に見送りたいので、
 街道脇に甲冑を付けて埋葬してくれ。」と武蔵は遺言しています。


 武蔵は、剣で出世を望みました。しかし、その願いはかないませんでした。
 残念ですが、死んで初めて甲冑を付けることが出来たということになります。
 彼の生涯が残された物語と同一だとすると、あまりにも恵まれないものでした。


■個人的な武蔵さんへの気持ち


 武蔵が達人であり、正当な評価を得られる人であったのか。
 私は違うと思います。


 根拠は、彼が死を近くしてもなお「六十余戦無敗」と書いたからです。


 負けたことは絶対にあるので、普通はそれらも踏まえて、後世の人に
 書き残すだろうと思うのです。でも彼は自己顕示欲しかない。


武蔵以外の剣術家の書物を見てください。


 著名である方の記載内容は、ひじょうに似ています。
 また、武術を極めた人であるほど、表現が誰にでも伝わるようしている。

 その理屈もわかりやすい。
 わかりやすい例なので示すと、千葉周作。
 時代が違うとはいえ、ああも違うものか。


武蔵の代表作「五輪の書」を読んで比べてみてください。


 武蔵の文章は意味が分からない、漠然とした記載が多い。
 明確なことを書いていないので、役に立たないのです。
 また、同じような記述を何度も行っていたり、
 その記述箇所によって記載内容が異なっている。


 また、誤字や面倒なのか当て字で書いていたりする部分もある。
 己の道の集大成としたものを、そんなレベルで遺すものか。
 私の中では、そのような印象です。

■回答者である私について


私の説明が正しいとは思えませんので、最後に触れておきます。
私の家は(熊本にいた時の)宮本武蔵とも縁のある家でした。


いろいろと伝え聞いたことがありましたので、
宮本武蔵のことがわかるものを調べたり伺ったりした時期がありました。


ただ、30年ぐらい前には、調べるべき実像は無いと感じました。
だから、バガボンドは一度も読んだことがありません。歴史を大きく誤解しますので。



武蔵は数え13歳で新当流の有馬喜兵衛を撲殺することから戦いの歴史をスタートさせました。
私は祖父から武蔵の話を聞かされ、子どものころは「天才」と武蔵を考えていました。


ですが、小6時(私の身長は既に170cmありました)に剣術や剣道の先達である
60~70代の方々の妙技を見て、武蔵に疑問を持ちました。
そうそう勝てるものではないと感じたのです。



160cm足らずの方もいましたが、技がすばらしいのはもちろんのこと、
その顔つきも第二次大戦で南方諸島やシベリアから帰ってきたりした経験がある方々で、
演舞中の眼、その表情はは私の12歳までの中でそうそう見たことがないものでした。


その方々の所作・発言等に触れますと、武蔵のあの誤字や当て字の数々はピンときませんでした。

30年ほど前まで調べあさり、私が出した答えは2つです。
※それ以降に武蔵の新しい資料等を読んだ機会は少ないので、現在の研究結果とは大きくことなるかもしれません。


仮説1.武蔵は仕官するために、嘘の履歴を書き連ねた。
仮説2.剣豪・武蔵は世にいたかもしれないが、熊本にいた武蔵は剣豪・武蔵ではない。


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